津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で、岩手県北部にある普代村を高さ15メートルを超える防潮堤と水門が守った。村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15メートル以上」と譲らなかった。
「これがなかったら、みんなの命もなかった」。太田名部(おおたなべ)漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15・5メートル、全長155メートルの太田名部防潮堤を見上げながら話した。
津波が襲った先月11日、店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが、防潮堤が食い止めてくれた。堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが、足もとがぬれることもなかった。
村は、昆布やワカメの養殖が主な産業の漁村で、人口約3000人は県内の自治体で最も少ない。海に近く狭あいな普代、太田名部両地区に約1500人が暮らし、残る村人は高台で生活している。普代地区でも高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門が津波をはね返した。
防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ、水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ、「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10メートル)を大きく上回る計画は当初、批判を浴びた。
村は1896年の明治三陸津波、1933年の昭和三陸津波で439人の犠牲者を出した。当時の和村幸得村長(故人)が「15メートル以上」を主張した。「明治に15メートルの波が来た」という言い伝えが、村長の頭から離れなかったのだという。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110403-OYT1T00599.htm
太田名部漁港(手前)と、防潮堤が機能して被害を受けなかった太田名部地区(奥)(2日)
村長△
9:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/04/03(日) 22:27:39.19 ID:wzmQFky40
村長の偉業は末代まで語り継がれるであろう
21:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 22:29:09.95 ID:JIWSaEKf0
いかに一般大衆目線の危機対策はやばいという実例だな。
43:名無しさん@涙目です。(千葉県):2011/04/03(日) 22:31:15.64 ID:ssEuLLkJ0
凄い先見の明だな
でも津波無かったら批判され続けたんだろうな
48:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/04/03(日) 22:31:51.52 ID:9NudHR9M0
村長の銅像建ててやれ
172:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/04/03(日) 22:43:46.60 ID:xIx0xnZX0
村長の意見を尊重
51:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 22:32:05.35 ID:z/jRuOZc0
村民は村長にケツの穴向けて眠れねーな
18:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 22:28:52.98 ID:GOquccwS0
マジええ話や
76:名無しさん@涙目です。(香川県):2011/04/03(日) 22:34:33.72 ID:jRnPwEx00
結局は先人の言葉とか歴史からの方が学ぶことは多いんだよね
数字とかばかりみてる連中は失敗して想定外で済まして終わりだからな
大きい地震が起こった時は井戸の水を見ろって言葉をおぼえてたおばぁは
津波を察知して助かってたからな
89:名無しさん@涙目です。(北海道):2011/04/03(日) 22:35:32.37 ID:F3gCZFJlO
人類が自然災害に勝った瞬間だな
139:名無しさん@涙目です。(新潟県):2011/04/03(日) 22:39:42.54 ID:XeATk7aYP
まさに愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶだな。
歴史がすでに証明しているのに自分の身にそれが振りかかるまで理解しようとしないのはただのバカ
東電の連中はなぜそれが分からないのか。
事故後の処理も後手後手すぎる。
100:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/04/03(日) 22:36:40.10 ID:gAGkiCbH0
やっぱり市区町村のトップは地元から出すべき
154:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 22:41:44.17 ID:ffFli5iX0
石巻だかも「壮大な税金の無駄遣い」と地元で叩かれてた防波堤のおかげで
津波でほとんど被害がなかったとか津波の日のチャットログが話題になってたな
152:名無しさん@涙目です。(兵庫県):2011/04/03(日) 22:41:11.93 ID:MayX9FXl0
ナマポ配るより土木工事でもさせてカネ配った方が健全だわ
全国のナマポを東北に集結させて、堤防作らせろ
171:名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/04/03(日) 22:43:27.56 ID:eY2aFfB40
本当に防災対策は保険だなケチるととんでもないことになる
原子炉の安全施設だって多分10億単位ケチっただけで
停電の影響やら風評被害で被害総額10兆超えるだろ
182:名無しさん@涙目です。(関東):2011/04/03(日) 22:44:45.23 ID:bHZPwKR5O
津波が来た場合の被害額>>>堤防の価格だからな…
30億円かけて3000の命守れるなら安いわ
73:名無しさん@涙目です。(catv?):2011/04/03(日) 22:34:10.51 ID:DWwmh4L80
でもこれに安心して避難をおろそかにしてはいけないと思います。
238:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 22:54:28.33 ID:aUY3zunrP
15mだろうと20mだろうと超えられるときは超えられるんだから
堤防はほどほどにして避難経路とか高台の避難所とかを整備するようにしないと
いくら金があってもキリがないよなぁ
散々笑いものになってる田老だっていくつかの津波は防いでるわけだし、
ここの堤防だって次も大丈夫とは限らない
251:名無しさん@涙目です。(茨城県):2011/04/03(日) 22:56:04.75 ID:9pZvaCTj0
>>238
そうだな
身を守るためには高台へ逃げる
家を守るためには防潮堤
使い分けないとダメだな
372:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 23:14:41.15 ID:fXo3HsbH0
435:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/04/03(日) 23:24:32.05 ID:f9yM7IDB0
>>372
防波堤の無い左のほうは家が流されてるな
506:名無しさん@涙目です。(愛媛県):2011/04/03(日) 23:43:32.09 ID:rvbu+W9n0
>>372
第5地割のほうは津波の被害受けてるな
そっちに水が流れたから堤防が持ちこたえたのかも知れない
7:名無しさん@涙目です。(群馬県):2011/04/03(日) 22:27:23.16 ID:VHIOWHPu0
なんか石碑が集落を救ったみたいな話もあったよね
これより下に住居作るな、みたいな碑文が入ってるやつ
すごいね
281:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/04/03(日) 22:59:58.16 ID:K+mjGpJb0
>>7
その碑文は三陸海岸のあちこちにあって、地域によって対応がまちまちだった。
碑文の教えを守った地域は助かり、守らなかった地域は大勢が死んだ。
191:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/04/03(日) 22:46:02.41 ID:VTRIsaV00
>>7
生々しい
195:名無しさん@涙目です。(大阪府):2011/04/03(日) 22:46:56.93 ID:BCYNySTh0
>>191
これいつの時代からあんの?
207:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/04/03(日) 22:49:23.86 ID:VTRIsaV00
>>195
明治
そん時に大津波が来たらしいから
107:名無しさん@涙目です。(catv?):2011/04/03(日) 22:37:27.75 ID:Wi0Xi9NT0
言い伝えは本当じゃった…
434:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/04/03(日) 23:24:31.70 ID:pRXAerfh0
先人の言い伝えを守るってほんとうに大切なんだなと思い知らされるよ
60:名無しさん@涙目です。(関東・甲信越):2011/04/03(日) 22:32:52.11 ID:x0CSErH7O
10年かけて自作避難所作った佐藤さんもすごかったよ!
佐藤山。
http://ameblo.jp/c-dai/entry-10841340789.html
宮城県東松山市に、近所から「変わり者」というレッテルを貼られた、一人の爺さんがいました。
佐藤義文さん、77歳。
爺さんが住んでいる場所は、海から遠く離れていたのですが、これから年老いることを考えると、遠くの避難所になんて逃げられるとは思えない。だったら、近くに避難所を作ってしまおう・・・。
爺さんは、10年ほど前から、退職金を使って、裏の岩山をコツコツと整備していました。ところが、近所の人たちは、そんな爺さんを見て、「ずいぶん変わった人だなぁ」と思っていました。
津波なんて滅多に来るものではないし、爺さんが寿命を迎えるまでに津波は来ない。ましてや、こんな海から離れた場所まで津波が来るわけないし、来たとしても水浸しになる程度。高さ30m以上もある岩山に逃げ込むなんて、ちょっと大袈裟すぎるのではないだろうか。
しかし、岩山を整備にかかる費用は、すべて爺さんの退職金です。爺さんが自分のお金をどんなことに使おうと、知ったことではありません。きっと岩山を作っても意味はないけど、人のためにやっているっぽい感じが、彼には生き甲斐なのだ。だから、あえて止める必要もないだろう。
近所の人たちは、その変わった爺さんが作る岩山のことを、「佐藤山」なんて呼んでいました。
標高は30mほどしかないのに、親切に登山道やあずま屋まである「ハイキングコース(笑)」だから。こんなショボい山は、滅多にお目にかかれません。みんな、「佐藤山」を笑って見ていたのです。
岩山の整備が終わると、爺さんの変わった行動はさらにエスカレートします。今度は、役場に行って、「指定避難場所」にするように訴えたのです。
「あのねぇ、爺さん。もう既に市が作った指定の避難場所があるんだよ。爺さんの私有地でしょ?そんなのを市の指定避難場所にはできないに決まってるでしょう。」
それでも、爺さんは訴え続けました。「もし、大きな津波が来た時は、これくらい高い場所に逃げないとダメなんだ。このあたりには、指定避難場所もない。だから、うちを使ってよ。」
「はい、はい。わかったよ、爺さん。とりあえず、爺さんの言いたいことは分かるんだけど、一応、市で決めた指定避難場所というのがあるから、爺さんも津波の時は、なるべく指定避難場所に逃げてくださいね。」
せっかく作ったのに、あっさり門前払いをされた佐藤山の爺さん。仕方ない、もし津波が来たら、自分たちだけでも、この山に登ることにしよう・・・。
「2011年3月11日。東北地方太平洋沖地震、発生」
大きな揺れの後、爺さんとその家族は、飼っている犬を連れて、佐藤山に逃げました。すると、指定された避難場所ではなかったのに、既に40人もの人たちが集まっていました。
津波警報ではない。大津波警報が出ている。爺さんが言っていたような、大きな津波が来たら助からないかもしれない。しかも、この地区には、年寄りもたくさんいる。指定された避難場所に逃げるのでは、間に合わないかもしれない。
「佐藤山しかない!」
こうして、佐藤山に逃げた人たちが、この後に見たものは、まさに地獄のような光景でした。津波は「ブォー」と膨れ上がって押し寄せ、立ち木や家屋がなぎ倒される音がバリバリと響きました。生きている心地のしない轟音・・・。
第1波が引いた後、命からがら、佐藤山のことを思い出して逃げてくる人が、相次いで来ました。そして、第2波は、さらに大きな波だったのです。
津波に巻き込まれ、負傷しながら、たまたま佐藤山に流れ着いた人を、棒など差し出し、必死に引っ張り上げた佐藤山の人たち。
結局、佐藤山の避難者は70人ほどになり、お年寄りやけが人は小屋でストーブをたき、男性陣はあずま屋でたき火をして夜を明かし、全員が助かりました。
一方、周辺の避難所に逃げ込んだ人たちは、津波に巻き込まれ、大きな被害が出たそうです。
まわりからは「変わり者」と言われながらも近所の人たちを救うこととなった佐藤さんは、今、何を思うのか。
「老後の道楽もかねて作ったこの山が、たくさんの命を救えたのは良かったけれど、もっとたくさんの人に、『ここに逃げて!』と伝えておけばよかったなぁ・・・。」
192:名無しさん@涙目です。(中部地方):2011/04/03(日) 22:46:25.64 ID:lTV2SRnX0
感動した。ありがとう。
247:名無しさん@涙目です。(三重県):2011/04/03(日) 22:55:28.30 ID:/DsxSJK60
佐藤山はν速公認避難所
225:名無しさん@涙目です。(関東・甲信越):2011/04/03(日) 22:52:58.10 ID:ykPOHnoWO
大船渡市で地震9日前に亡くなった市議、小学校に避難通路建設を提案し71人の児童の命助かる
http://www.asahi.com/national/update/0329/TKY201103290249.html
岩手県大船渡市の海沿いの小学校に、津波から逃れる時間を短縮する非常通路をつけるよう提案し続けていた市議がいた。昨年12月、念願の通路ができた。市議は東日本大震災の9日前に病気で亡くなったが、津波にのまれた小学校の児童は、通路を通って避難し、助かった。
海から約200メートルのところにある越喜来(おきらい)小学校。3階建ての校舎は津波に襲われ、無残な姿をさらしている。校舎の道路側は、高さ約5メートルのがけ。従来の避難経路は、いったん1階から校舎外に出て、約70メートルの坂を駆け上がってがけの上に行き、さらに高台の三陸鉄道南リアス線三陸駅に向かうことになっていた。
「津波が来たとき一番危ないのは越喜来小学校ではないかと思うの。残った人に遺言みたいに頼んでいきたい。通路を一つ、橋かけてもらえばいい」。2008年3月の市議会の議事録に、地元の平田武市議(当時65)が非常通路の設置を求める発言が記録されている。
親族によると、平田さんは数年前から「津波が来た時に子供が1階に下りていたら間に合わない。2階から直接道に出た方が早い」と話すようになったという。平田さんの強い要望をうけたかたちで、昨年12月、約400万円の予算で校舎2階とがけの上の道路をつなぐ津波避難用の非常通路が設置された。予算がついた時、平田さんは「やっとできるようになった」と喜び、工事を急ぐよう市に働きかけていた。
11日の地震直後、計71人の児童は非常通路からがけの上に出て、ただちに高台に向かうことができた。その後に押し寄せた津波で、長さ約10メートル、幅約1.5メートルの非常通路は壊され、がれきに覆いつくされた。遠藤耕生副校長(49)は「地震発生から津波が来るまではあっという間だった。非常通路のおかげで児童たちの避難時間が大幅に短縮された」と話す。市教育委員会の山口清人次長は「こんな規模の津波が来ることは想定しておらず、本当に造っておいてよかった。平田さんは子供のことを大事に考える人でした」と話した。
伊達勝美町長、児童が津波に向かって逃げるのはおかしいと国に提言、二年前に小学校に避難階段を完成させ児童88人を救う
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110320/dst11032020090083-n1.htm
東日本大震災による津波は、岩手県岩泉町小本地区にある高さ12メートルの防潮堤を乗り越えて川をさかのぼり、家屋をのみ込みながら小学校まで迫った。間一髪で児童88人の危機を救ったのは、2年前に設置された130段の避難階段だった。
太平洋に臨む岩泉町小本地区は、小本川沿いに半農半漁の住民158世帯、428人が暮らしている。小本小学校は同地区の奥に位置し、背後には国道45号が横切っているが、高さ十数メートルの切り立ったがけに阻まれ、逃げ場がなかった。
同小の避難ルートは以前は別だった。数年前の避難訓練の際、伊達勝身町長が「児童が津波に向かって逃げるのはおかしい」と国土交通省三陸国道事務所に掛け合って変更。平成21年3月に国道45号に上がる130段、長さ約30メートルの避難階段が完成した。
小本小学校の校舎(体育館)裏から伸びる国道45号へ続く避難階段
267:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 22:57:46.29 ID:g6KKLeTwP
20年連れ添った最愛の妻を救うため、スキューバ装備で津波の濁流に飛び込んだ43歳の男性 アカイワ ヒデアキさん
http://blog.livedoor.jp/pfj_blog/archives/50609775.html
宮城県で地震と津波により被災したものの、妻と母親を救うために自ら救出活動した43歳の男性、アカイワ ヒデアキさんが、ロサンゼルスタイムズやフォーブスなどの海外メディアで報じられ、話題になっています。
津波の被害を受けた時、アカイワさんは自宅から少し離れた職場にいました。被災した彼が何よりも心配したのは、20年前にサーフィンを通じて知り合い、以来連れ添った最愛の妻。アカイワさんはいつ来るかわからない救援を待つ事などできず、ウェットスーツなどのスキューバダイビング用の装備を身に付け、瓦礫の浮かぶ危険な水の中へと身を投じました。
200ヤード(約183メートル)ほど水中を進んだアカイワさんが目にしたものは、10フィート(約3メートル)近く浸水した我が家の姿でした。アカイワさんが辿り着いたとき、彼の妻は家の最上階、わずかに空気の残る場所にいました。
「水はとても冷たく、暗く、恐ろしかった」
「瓦礫の中を進むのは非常に困難だった」
無事に妻を助けだしたアカイワさんはそう語ります。
しかし、彼の活躍はこれだけに留まりません。災害から数日後、避難所に見当たらない母親を探すために、母親を最後に目撃した場所に向かいます。アカイワさんの予想通り、母親は浸水した家屋の中に取り残されていました。
「母は周囲を水に囲まれた場所に取り残されて、パニック状態になっていた」
「すごく見つけるのが難しかった」
彼が母親を救助したのは、地震の発生から4日後の事でした。
Southeast Asia Bureauのレポーター、Rick Westheadがアカイワさんに「なぜ自分の命を省みず、奥さんを救いに行ったのですか?」と質問すると、アカイワさんは一言、「彼女はとても大切なひとだから」と答えたそうです。
その後もアカイワさんは、近隣の住人や友人たちを探すために救助活動を続けています。赤いウェストポーチに「緑茶」「水」「懐中電灯」「着替え」「緊急医療具」「迷彩柄のグローブ」「スイスアーミーナイフ」「煙草2箱」「ライター」を入れ、レイバンのサングラスをかけて。
インタビュー中「スミマセン、私はもう行かなくてはなりません」と一言残し捜索にでかけました。彼が友人知人たちを助け、無事に生還することを祈らずにはいられません。
津波てんでんこで全員無事だった小中学生
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/dogai/281397.html
東日本大震災で1200人を超す死者と行方不明者を出した岩手県釜石市では、3千人近い小中学生のほとんどが無事に避難した。背景には、古くから津波に苦しめられてきた三陸地方の言い伝え「津波てんでんこ」(自分の責任で早く高台に逃げろの意味)に基づいた防災教育がある。想定外の大津波が押し寄せる中、防災の教えが子供たちの命を救った。
釜石市北部の大槌湾を望む釜石東中学校(生徒数222人)は、同湾に流れ出る鵜住居(うのすまい)川から数十メートルしか離れていない。11日午後の地震発生時は、各教室で下校前のホームルームが行われていた。
立っていられないほどの横揺れが生徒たちを襲った。1階にいた3年生の栗沢正太君(15)は避難口を確保しようと、とっさに窓を開け、机の下へ。揺れが一段落すると、担任教師が「逃げろ」と叫び、栗沢君が校庭に出ると、2、3階にいた1、2年生も非常階段を下りてきた。
校庭に出た生徒たちは教師の指示を待たず、高台に向かって走りだした。途中、同校に隣接した鵜住居小学校(児童数361人)の児童も合流。小学生の手を引く中学生の姿も目立ったという。
子供たちは普段の防災訓練で使っている高台に集まろうとしたが、だれかが「まだ危ない」と言いだし、さらに高い場所にある老人施設まで移動。学校から1キロも走っていた。
教師たちが点呼を取ったところ、登校していた両校の児童生徒計562人全員の無事が確認できた。その5分後、両校の校舎は津波にのみ込まれた。
死ぬまでマイクを離さず避難を呼びかけた町役場のお姉さん
http://www.mainichi.jp/select/weathernews/news/20110314k0000m040103000c.html
「早く逃げてください」−−。街全体が津波にのみ込まれ約1万7000人の人口のうち、約1万人の安否が分からなくなっている宮城県南三陸町は、町役場が跡形もなくなるなど壊滅した。多くの町職員や警察官、消防職員が行方不明となったが、その中に津波に襲われるまで防災無線放送で住民に避難を呼びかけた女性職員がいた。
「娘は最後まで声を振り絞ったと思う」。同町の遠藤美恵子さん(53)は、避難先の県志津川高校で涙を浮かべた。娘の未希(みき)さん(25)は町危機管理課職員。地震後も役場別館の防災対策庁舎(3階建て)に残り、無線放送を続けた。
難を逃れた町職員(33)によると、地震から約30分後、高さ10メートル以上の津波が町役場を襲った。助かったのは10人。庁舎屋上の無線用鉄塔にしがみついていた。その中に未希さんはいなかった。
遠藤さんは「(生き残った職員から)『未希さんが流されるのを見た』という話を聞いた。もうダメだと思う」とつぶやいた。
地震直後、遠藤さんの知人、芳賀タエ子さん(61)は「6メートル強の波があります。早く逃げてください」という未希さんの放送の声を聞きながら、携帯電話だけを持ち、着の身着のままで車で避難所の志津川高校のある高台を目指した。停電で信号が動いておらず、周辺道路は渋滞していた。高台への道路を上がる時、振り向くと渋滞の列からクラクションが鳴り響き、その背後から津波が家屋などをなぎ倒しながら追いかけてくるのが見えた。
芳賀さんは懸命にアクセルを踏み、数十メートルの高さの高台に逃れた。車を降りて避難所の階段を上がった。遠藤さんもたまたま避難していた。
芳賀さんは遠藤さんの手を握って言った。「娘さんの声がずっと聞こえたよ」
遠藤未希さんが無線で避難を呼び掛け続けた防災対策庁舎(右側の鉄塔付きの建物)
屋根の上にいて丸2日間漂流して助かった人
http://www.asagumo-news.com/news/201103/110317/11031707.html
3月13日午前11時半ごろ、福島県沖合い約15キロの海上で、海自イージス護衛艦「ちょうかい」(艦長・大川努1海佐)が、津波に押し流された家の屋根に乗って漂流していた男性を救助した。
統幕によると、男性は同県南相馬市に住む新川広光さん(60)。同海域で救助活動を行っていた「ちょうかい」の乗組員が同日午前11時10分ごろ、漂流中の新川さんを発見。照射灯と汽笛で新川さんに「発見」の合図を送り、内火艇を下ろし、赤い布を振って助けを求める新川さんを収容した。海面は流木などの漂流物に覆われ、内火艇のスクリューを破損する可能性がある中での救出劇となった。
新川さんはベージュの作業服姿で、漂流中に拾ったヘルメットを被り、名前と住所を書いた紙を入れた缶を持っていた。内火艇に収容された新川さんは安心した様子で、手渡された飲料水を飲み干すと涙を流し始め「ちょうかい」に着くまで泣き続けたという。
新川さんは転覆の恐怖などに丸2日間、耐え続けた。「2本持っていた栄養ドリンクの2本目を今日飲み干してしまい、今日が最後かなと思った。救助前にも近くをヘリや船が通ったが、気付いてもらえなかった」と救助した乗員に語った。
新川さんは地震の後、いったん避難したが、妻と一緒に物を取りに自宅に戻った際、津波に流された。妻はそのまま流されて行方が分からないという。新川さんは軽傷を負っており、艦載ヘリで相馬市内の病院に運ばれた。救助に当たった「ちょうかい」の大川艦長は「無事で何よりだった。今後も任務に全力を尽くす」と話している。
電柱にしがみついて「ねるなー!」と励ましあって13時間、助かった先輩後輩会社員
http://mainichi.jp/select/today/news/20110328k0000e040022000c.html
東日本大震災の大津波にのまれ、仙台市宮城野区の古タイヤ再生会社の契約社員、加藤豪(ごう)さん(37)は13時間半、電柱にしがみついて、生きながらえた。今、「テレビを見たくない」と言う。地獄のような光景がよみがえってくる。余震に跳び起き、フラッシュバックにおびえる夜。職も失った。だが「生き残ったからこそ踏ん張らなければ」と自身に言い聞かせる。
11日、仙台市若林区の海岸沿いの県道をワゴン車で走行中、左右に激しくハンドルをとられた。電線が波打ち、バチン、バチンと切れる。「こいづは来る」。津波を予期し、そのまま仙台新港のフェリーターミナルに近い事務所まで突っ走った。国道のバイパスに抜ける道は渋滞してしまうと考えたからだ。
事務所の外にいたのは先輩の男性社員(40)だけ。「加藤君、津波だ!」。叫び声と同時に地鳴りのようなごう音が背後に聞こえた。
真っ黒い濁流にのまれた瞬間、10メートル程先の電柱に先輩がよじ登るのが見えた。押し流されながら、それに必死でしがみついた。高さ約7メートルの一番上に先輩。そのすぐ下まで登ったが、濁流は足元まで迫っていた。
周囲の電柱はすべて倒れた。しがみついた電柱は、もう1本が斜めに支える2本組みだったことが幸いしたようだ。家屋や大型トラックが流れてくるたびに「ぶつからないでくれ」と祈った。
暗闇の夜。ズーンという爆発音と衝撃が伝わってきた。石油コンビナートの方角に火炎が上がり、足元がうっすら照らされる。引き波で海に運ばれていく人の姿が目に入り、思わず目を背けた。現実とは信じられなかった。
寒くて眠気に襲われたが、静寂の中に「寝んなよー」という声が響いた。手の感覚は失われていたが、「誰かが見てくれている」と気持ちを奮い立たせた。夜明け前、ようやくひざ上まで水が引き、先輩と2人で何とか生き延びた。
震災から2週間後の25日。3月分の給与が振り込まれたが、経理担当者は「来月からは失業保険で」と言った。体調を崩し、21年間勤めた自動車整備会社を辞めたのは昨年3月。アルバイトをしながら10月にようやく見つけた仕事だった。「解雇ってことかな」と話す。13年前に倒れた父親(63)を母親(63)と姉(39)とで支えている。「仕事探さなきゃ」と自らに言い聞かせた。
あの日、夜明け前の薄明かりを頼りに100メートルほど離れた立体駐車場にたどり着き、車の中で暖をとらせてもらった。十数キロ先の自宅まで泥だらけで歩く途中でたばこをくれた人もいる。温かさが身にしみた。
「生きてりゃまた、いいことあるよね」
作業着の胸ポケットに入れていたオイルライターを乾かしている。ともに生き延びたライターで一服つけたい。大震災の悪夢も失業の苦難もきっと乗り越えてみせる。
ひきこもりだったのに逃げずに家ごと流されるも生還したオッサン
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2011/03/17/kiji/K20110317000442390.html
2階の窓を開けると、高さ10メートルの防潮林をのみ込む津波が見え、瞬く間に自宅も襲われた。岩手県野田村の海岸線近くに住む無職男性(48)は約15年間外出せず、引きこもっていた。自宅ごと流され、一時は死を覚悟したが奇跡的に生還し「幸運だった」と喜びをしみじみと語った。
男性は母親(72)と2人暮らし。勤めていた東京の会社が約15年前に倒産。故郷の野田村に戻り、そのまま引きこもるようになった。
「避難はおっくうだった」と男性。11日の激しい揺れの直後「逃げなきゃだめだ」と何度も訴える母親の言葉を聞き入れなかった。
母親だけが避難した直後、ドンという音とともに自宅は流された。部屋の壁が崩れ、天井が落ちてきた。あっという間に胸まで水に漬かり、屋根の梁(はり)に手を伸ばし必死に抱え込んだ。わずかな空間で呼吸し、屋根ごと1キロ近く流された。
だが間もなく屋根は真っ二つに割れ、濁流の中に。気が付くと下着ごとジャージーは脱げ、腰や脚は擦り傷だらけに。
ようやくビニールハウスの骨組みをつかみ、引き波に耐え続けた。どこにいるか分からなかったが、寒さに震えながら高台へ歩き、隣の久慈市の避難所に運ばれた。
「息子はもう生きていないだろうと正直諦めていた」。野田村の避難所にいた母親の元に3日後の14日、朗報が届いた。再会し、母親は涙を流して男性を抱き寄せた。「人とのコミュニケーションは苦手だが、避難所の生活はそんなに苦でない」と男性は話している。
津波から3週間後に救助された漂流犬バンちゃん
猫のノンチャン
車で逃げようとして津波にのまれて助かったおばちゃん
294:名無しさん@涙目です。(栃木県):2011/04/03(日) 23:02:14.65 ID:1WvA+HZc0
独断で学校にヘリで急行して物資を運んだ米軍
286:名無しさん@涙目です。(広西チワン族自治区):2011/04/03(日) 23:00:58.69 ID:WvN3s9PTO
ばあちゃんと二人で埋まって何日かぶりに助けられた高校生
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110321k0000m040056000c.html
孫は動けない祖母を守り続け、9日間耐え抜いた。東日本大震災で壊滅的な被害を受けた宮城県石巻市で20日、217時間ぶりに救出された高校1年、阿部任(じん)さん(16)と祖母寿美(すみ)さん(80)。2人は倒壊した自宅の冷蔵庫にあった水やヨーグルトなどを口にして助けを待った。救助された時、寿美さんは救急隊員の励ましに何度もうなずき、「孫はどこ?」と任さんを気遣った。助け出した警察官らの泥まみれの顔に涙が伝った。
303:名無しさん@涙目です。(京都府):2011/04/03(日) 23:03:33.19 ID:ELU8kS/f0
地味に多大な人命を救ったのが、
仙台の高速道路を『こんなこともあろうかと』と高架でなく盛り土にして堤防機能を持たせ
市街地への津波直撃を防いだ東北大 今村文彦教授なんてのもいる。
これがなきゃ仙台中心がやられていた。
395:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 23:18:00.19 ID:aUY3zunrP
>>303
今村文彦教授って仙台のあたりに1000年周期で大津波が襲うことを何年か前に警告してた人じゃん
すげーな
447:名無しさん@涙目です。(宮崎県):2011/04/03(日) 23:26:31.29 ID:RdzE1Gd80
>>395
この人変態だもん
たしか仙台の科学館にこの人の作品があるはず
津波マシン
で、女川原発がカネの無駄カネの無駄って言われててもああなったのは
確か東北大の偉い人がああしろって言ったからじゃなかったかな
崖をコンクリで固めてるはずだ
316:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 23:05:41.54 ID:fXo3HsbH0
速攻で逃げる判断した経営者も入れてくれ
340:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 23:09:34.74 ID:DQ82JtVA0
>>316
うわ、1:13頃の川がすげえ
本当にあんなふうになるんだ
381:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/03(日) 23:15:58.36 ID:m0aakGcg0
>>340
なにげに撮ってるけどすげえ恐いよね
323:名無しさん@涙目です。(catv?):2011/04/03(日) 23:06:47.06 ID:5vUGkplp0
死ぬまで半鐘を叩き続けた消防団員
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110323-00000018-maip-soci
海岸に近い大槌町の安渡・赤浜地区。第2分団は地震が起きると真っ先に門扉を閉じる決まりになっていた。11日も団員たちは一斉に防潮堤へ向かった。
「おみゃーは屯所でサイレン鳴らせ」。14カ所ある門扉の1カ所を閉め終わったところで、団員の飛内邦男さん(55)は越田さんからそう指示された。
津波が迫っていた。住民を円滑に避難誘導するには、全域に危険を周知する必要がある。飛内さんはサイレンを鳴らすため近くの分団屯所へ車で向かった。
スイッチは1階。ボタンを押した。鳴らない。地震で町全域が停電し装置が作動しなかった。
間もなくして越田さんが屯所にやってきた。状況を報告すると越田さんは「よし」と一声。屯所の屋上に上がり叫んだ。「早ぐ行げ。みんなを避難させろ」。その時、飛内さんは、越田さんが普段は火の見やぐらから外してある半鐘を手にしているのを見た。これが最後の姿だった。
「カン、カン、カン」。大災害時にだけ使用が許可されている特別な鐘。その乾いた音は遠くまで響いた。当時、数百メートル離れた高台に避難していた元分団長、東梅武保さん(72)は「海の様子が見えていたんではないか。何とも寂しい音だった。今も耳から離れね」。
第1波が到達したのは午後3時20分ごろ。高さ約5メートルの堤防を軽々と乗り越えた黒い波は、渦をまきながら集落をのみ込んだ。同じころ、屯所の近くでは団員10人前後が高齢者の避難を手伝っていた。住民や団員に警報を出し続けた半鐘の音は、津波が屯所に達するまで鳴っていた。
津波が引くと、屯所は建物の基礎部分だけを残し消えていた。変形した屯所のやぐらが、がれきの中から見つかったのは10日後のことだ。
越田さんと半鐘の行方は、今も分かっていない。
502:名無しさん@涙目です。(和歌山県):2011/04/03(日) 23:43:02.30 ID:9lHJRfTc0
定員オーバーで奥さんだけが残ると言って涙ながらにその場を後にした夫が
母親とご近所さんを安全なところに連れて入った後、
老母をご近所さんに任せて自分は奥さんを探しに戻って
そのまま夫婦ともに行方不明になった人
JR駅前で写真店を経営する菅野有恒さん(56)と太佳子さん(55)夫妻が、離れて独り暮らしをする母光子さん(87)を車で助けに来たのは、地震から十数分後のことだった。
「おふくろ、早くしろ」。急いで薬と保険証をリュックに入れ、家を出る。すると、近所の独り暮らしの女性ら3人が道路にいた。全部で6人。小さなワゴン車に乗れるのは5人だけだ。顔を見合わせると、「私が残ります」。太佳子さんが申し出た。有恒さんもうなずいた。
「後ろの荷台に乗れるでしょ」。光子さんが叫んだが、太佳子さんは笑顔で首を振った。車は太佳子さんを残して急発進した。
避難所の入り口で降ろされた光子さんらは、ごう音とともに建物をなぎ倒す津波を見た。「おふくろを頼みます」。近くの人に言い残し、有恒さんの車が猛スピードで引き返し、津波の中へ突っ込んだ。「ああっ」。車が見えなくなってすぐ、波が街をのみ込んだ。
避難所では、有恒さんの車に助けられた女性たちと枕を並べる。「息子さん夫婦に命をいただいた」と涙ぐむ女性たちに気兼ねして、光子さんは「避難所では泣けません」と気丈に笑う。
でも、本当はつらくて、眠ることができない。息子は嫁を残したことを悔やんだに違いない。引き返す時「命が危ないのは分かっていた。でも、行くなとは言えなかった」。そっと避難所を抜け出しては近くの公園でお経を唱え、人目を忍んでおえつを漏らす。(中日新聞より)
320:名無しさん@涙目です。(兵庫県):2011/04/03(日) 23:05:58.13 ID:qWbRQb9B0
拡声器のマイクを握ったまま亡くなった消防団員
「高台へ逃げてください」。地震発生の日、住民に拡声器で声を振り絞った消防団員は津波にのまれた。宮城県名取市の桜井歩さん(46)の最後のアナウンス。流された消防車は無残に押しつぶされ、団員3人は遺体で見つかったが、助手席の桜井さんは右手にマイクを握りしめたままだった。(中日新聞より)
避難誘導のため津波にも動じず交差点に立ち続けた警察官
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110327/dst11032722320074-n1.htm
東日本大震災後、危険を顧みず、住民に避難を呼びかけていた宮城県警の警察官9人が津波の犠牲になった。がれきの下から救い出された遺体の多くは制服を身にまとい、そばには警察手帳が残されていた。
職務を全うできるってのは尊敬すべきこと。東電とは違う。
341:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 23:09:49.73 ID:g6KKLeTwP
衛星電話、命と引き換えに 高田病院事務局長
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110324_13
同病院関係者によると、横沢さんは1階にあった1台の衛星電話を取りに戻った。大津波が迫る中、固定されていた電話を必死に取り外し、近くにいたスタッフに手渡したという。受け取ったスタッフは間一髪で逃げて助かったが、横沢さんは行方不明になった。
衛星電話は外部との唯一の連絡手段として、同病院の医師らが陸前高田市の米崎コミュニティーセンターに開設した診療所で使われた。関係者は「事務局長の命が、被災者や自分たちの命を守り、つないでくれている」と感謝しているという。
県立中央病院(盛岡市)の放射線技師で、横沢さんの長男淳司さん(32)は「電話や、ないと困る別の物も取りに行って探していたんでしょう。立場もあり責任感が強かったから」と話す。
2008年4月から高田病院事務局長となった横沢さんは、自宅の紫波町には週末しか戻らない単身赴任生活をしてきた。妻澄子さん(60)が横沢さんと最後に会ったのは6日の日曜日。同日の夕食の弁当を作って「気を付けて行ってね」と言葉を掛けた。
26日に家族総出で引っ越しをし、退職後は犬を飼ったり、庭木の手入れをして過ごすつもりで、孫の凛ちゃん(1)の成長を楽しみにしていた。「温泉で還暦と退職祝いをしようね」と家族で語り合っていた。
屋上アンテナにしがみつき続けて生き延びた町長
「生きていたのか!」。たどりついた避難所で町民に驚かれた。庁舎が津波の直撃を受け、安否不明になっていた宮城県南三陸町の佐藤仁町長(59)が生還した。
津波は第1波で庁舎をのみ込み、全ての壁と天井を打ち抜いた。佐藤町長の体は偶然、外の非常階段の手すりにぶつかって止まった。第2波、第3波は鉄骨の上で無線アンテナなどにしがみついて耐えた。「屋上には30人ほどいたが、気が付けば8人しか残っていなかった」
夜は雪の中、8人が鉄骨の上で、流れ着いた発泡スチロールや木っ端で火を起こし、暖を取った。12日の朝、庁舎に絡まった漁業用ロープを使って地上に下りた。
人口約1万8000の南三陸町では依然、町民約1万人と連絡が取れない。「拾った命。町民のために全力を尽くす」。佐藤町長は13日、公務に復帰し陣頭指揮を執った。(河北新報社)
逃げ後れたけど流れ着いた船に飛び乗り、民宿の窓を割って犬とともに逃げ切ったニコ厨
356:名無しさん@涙目です。(愛媛県):2011/04/03(日) 23:12:29.39 ID:KYmbptRZ0
大津波で跡形もなくなった高田松原に1本だけ残った松
348:名無しさん@涙目です。(広島県):2011/04/03(日) 23:10:58.17 ID:h3C0bj0A0
中国人20人助けた行方不明の佐藤充さん 中国で英雄に
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=138293
東日本大地震が発生した11日、会社の中国人研修生20人を先に避難させた後、自分は津波にのまれて行方不明になった日本人専務の話が中国大陸を感動させている。
中国日刊紙・新京報(17日付)によると、宮城県女川にある水産物加工会社・佐藤水産の佐藤充専務は、地震が発生すると、寄宿舎の近くにいた遼寧省大連出身の中国人女性研修生20人に「もうすぐ津波が来る。早く避難しなさい」と伝えた。
そして研修生を高台の神社に避難させた後、自分は妻と娘を探しに会社の寄宿舎に戻った。しかし佐藤専務は津波にのみ込まれ、研修生の目の前から消えたという。佐藤専務の家族も行方不明となっている。
女川の人口1万人のうち現在の行方不明者5000余人。ここで研修を受けていた中国人研修生は100余人だが、犠牲者は1人もいなかった。
中国人研修生は日本人の同僚と村の人々のおかげで安全なところに避難できたと、同紙は伝えた。中国人研修生は「佐藤専務に助けられなければ、私たちはみんな津波の犠牲になった」と涙を流した。
中国ポータルサイトには「彼は愛に国境がないということを教えてくれた」 「彼の殺身成仁精神を中国人は決して忘れない」などと佐藤専務の犠牲を称えるコメントが殺到している。
472:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/03(日) 23:33:01.05 ID:Vu6v3Ct80
死んだ旦那さんの荷物の中からホワイトデーの指輪
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110319-OYT1T00925.htm
夫の荷物の中に指輪があった。ホワイトデーのプレゼントに、こっそり買ってくれていたらしい。
その夫は今、遺体安置所で眠っている。東日本巨大地震で壊滅的被害を受けた宮城県気仙沼市。同市本吉町寺谷、主婦大原枝里子さん(33)は、夫の顔についた泥をぬぐい、優しくキスをした。
夫の悲報を受けたのは17日。気仙沼周辺で配送作業中に津波にのまれたらしいと、夫の上司から知らされた。18日、子供が眠ったのを見計らい、遺体安置所に向かった。目の前のひつぎの中で眠っているのは、間違いなく良成さんだった。涙があふれ出た。キスをしながら、「愛してるよ」とつぶやいた。遺体に何か着せてやろうと、倒壊を免れた自宅に戻り、会社から引き取った夫の荷物にふと目がいった。指輪が入っていた。以前、「たまには指輪とか欲しいけど、パパはプレゼントくれる人じゃないもんね」と、意地悪を言ったのを思い出した。
138:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/04(月) 20:16:52.55 ID:348pM4ao0
津波の中、幼女とその母ちゃんを抱きかかえて助けた身長180の15歳サッカー少年
http://www.vegalta.co.jp/contents/news/press_release/2011/03/post-540.html
ベガルタ仙台ユース所属のDF 藤澤恭史朗選手(15歳 東松島市立矢本第二中学校3年生)が3月11日の震災時に人命救助を行ったことをご報告いたします。
藤澤選手は、地震が発生した時に外出先から急いで東松島市の自宅に戻る途中、東松島市付近にて津波に流されてしまい必死に助かろうと頑張っていたところ、後方から津波で流されてきた親子(母子)に気がつき勇気をもって右腕で子供、左腕で母親をつかみました。
なんとか、近くにあった軽トラックの屋根に登り難を逃れましたが、水かさが増し胸まで浸水したので、子供を肩車し、左腕で母親をかかえたままの体勢で長い時間耐えていました。時間が経ち徐々に水かさが減ったので無事おふたりを避難所へ送りとどけ、人命を救出することがでました。
藤澤選手も無事避難することができ、現在は避難所で生活をしています。
157:名無しさん@涙目です。(catv?):2011/04/04(月) 20:30:20.06 ID:H0fONu740
大型トラックをバックさせながら津波から逃れて高速に逃げこんだ運ちゃんは
180:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/04(月) 21:06:08.93 ID:UMluBhAv0
185:名無しさん@涙目です。(山梨県):2011/04/04(月) 21:31:06.93 ID:EPzQqDe20
>>157
すげえ
197:名無しさん@涙目です。(埼玉県):2011/04/04(月) 21:56:46.36 ID:NcQ4CAlJ0
>>157
コレ本当なら、バックで料金所突破したのか
ETC月か
211:名無しさん@涙目です。(長野県):2011/04/04(月) 22:13:25.26 ID:i5XW0h1c0
>>157
一人ダイハードかよ
214:名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/04/04(月) 22:20:35.60 ID:dLdvzn210
自らを盾にして落ちてくる瓦礫から女子生徒を守った柔道少年
http://www.asahi.com/national/update/0330/TKY201103300541.html
東日本大震災が起きた今月11日、栃木県下野市の市立国分寺中学校の体育館で、同中1年の柔道部員、瀬内龍虎君(13)が、崩れ落ちる天井の下から女子生徒を助けた。自身も落下物が肩にあたり、けがをするなか、女子生徒を上から覆うようにして壁際まで移動させた。とっさの判断だったが、「勇気ある行動」として校長賞が贈られた。
263:名無しさん@涙目です。(チベット自治区):2011/04/04(月) 23:53:26.50 ID:decbxgAz0
南三陸町で津波から間一髪で逃げ切ったバスの運転手および乗客
1分4秒から1分11秒当たり
257:名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/04/04(月) 23:44:17.50 ID:EYzMqH1r0
津波が到達した体育館で子ども達数人を担いで老人が溺れ死ぬ中、子どもたちを救った保母さん達
http://blog.goo.ne.jp/3110hidetoshi/e/b62e9ee6803447829bf9c9ef1eb754e5
体育館に避難した人たちが津波により体育館内に流入した水により水没し溺死しました。その悲しい結末の中で、園児とともに避難していた保育士が、両手に園児を抱え、カーテンにしがみ付いて増水した体育館の中にも関わらず難を逃れたそうです。
急斜面を園児30人を背負って助けた女性保育士とスーパーの従業員
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110403_8
八木沢弓美子園長(45)によると、地震発生時は昼寝が終わったばかり。園児約100人はパジャマのまま防災ずきんをかぶり外に。向かったのは国道沿いの小高い丘にあるコンビニ。町の指定避難所は空き地で寒さをしのぐ建物がない。保育園は、津波浸水想定区域のぎりぎり外にあるこのコンビニを独自の避難場所と決めていた。
八木沢さんはコンビニ店内で、迎えに来た親に園児のうち約70人を引き渡し、外を見た。「家の屋根をたくさん浮かべた高い波」が迫ってきた。「怖い、怖い」と泣きじゃくる園児ら。覚悟を決めた。「山に逃げよう。先生のそばにいれば大丈夫」
国道は市街地から逃げる人や車で大渋滞。八木沢さんらは、1歳から年長まで残っていた園児30人を散歩用の台車に乗せて車道を駆け上がり約300メートル先の山のふもとへ。近くのスーパー従業員約30人も避難していた。
さらに津波が迫ってきた。もう考えているひまはなかった。目の前には30度を超えるような急斜面。でも登るしかない。八木沢さんら女性保育士20人と男性保育士1人、さらにスーパー従業員の男女が手分けして園児をおんぶし、斜面に張り付くように四つんばいになって、切り株や木に手をかけて登り始めた。上へ、上へ。
必死だった。登りながら振り返った。大槌湾から押し寄せる波が、コンビニと園舎、指定避難所の空き地に向かう道路をのみこんでいった。
山頂は雪。眼下で火事も起きていた。山頂まで何分かかったか覚えていない。20分だったか、30分だったか…。
気持ちが落ち着いたら、山頂からふもとにつながる細い山道があることに気付いた。歩いてふもとに下りたのは真夜中だった。
コンビニで親に引き渡した園児のうち9人が、死亡または行方不明になっていた。最後に引き渡した女児は、乗用車の中で防災ずきんをかぶった姿のまま遺体で見つかった。
「あそこで引き渡さなければ、あの子は助かったんだろうか」。八木沢さんは保育士を辞めようと思い詰めたが、保護者の声に支えられ保育園再開のために汗を流そうと決めた。亡くなった子どもや親の分まで、自分にできることを精いっぱいやるつもりだ。
306:名無しさん@涙目です。(catv?):2011/04/05(火) 01:04:25.17 ID:suzoi4uA0
たんすに乗って漂流し助かる 大船渡の男性
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/news/20110328k0000m040023000c.html
津波で家ごと流された岩手県大船渡市の会社役員、金野健一郎さん(37)は、たんすにつかまり大船渡湾を漂っているところを小型船に助けられた。船長の男性は、名前や住所を頑として名乗らなかった。金野さんは「船長の恩は一生忘れない。落ち着いたら捜して、もう一度お礼を言いたい」と話している。
253:名無しさん@涙目です。(神奈川県):2011/04/04(月) 23:28:02.09 ID:ReZLrfQmP
宮城県南三陸町病院屋上で0cmホバリンクをしてみせた自衛隊ヘリ
軽自動車をわざと車幅ぎりぎりの路地に突っ込み、津波のときは浮いてやり過ごした主婦
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110315-OYT1T00696.htm
岩手県山田町の小野優子さん(39)は、マイカーで逃げる途中、津波につかまったが奇跡的に助かった。車を細い路地に入れる機転が功を奏した。
当時、町立山田南小2年の長男(8)と近所の同級生の2人を後部座席に乗せていた。自宅に戻る途中、高さ数メートルの堤防を津波が越えてくるのを見た小野さんは、車を細い路地にバックで入れて停車。車は数秒でエレベーターのように2階の高さまで浮き上がり、津波がひくと、そのままの姿勢で「着地」した。車が転覆するのを壁が防いでくれた。目の前の道路では、波を受けた車が転がるように押し流されていくのが見えて怖かったという。
後部座席の窓を割って子ども2人と車を脱出すると、近くにいた男性らの助けで高台に逃げた。3人ともけがはしていなかった。小野さんは「あきらめかけた時、子どもが明るく『助かろうね』と声をかけてくれた。子どものおかげで希望を持てた」と話した。
渋滞している道路で前方から津波が迫ってるのを見て
反対車線をバックでかっ飛ばして助かったおばちゃんってのもいた
300:名無しさん@涙目です。(dion軍):2011/04/05(火) 00:52:45.27 ID:OQ3UIxzs0
津波が迫る仙台空港から間一髪で脱出した報道ヘリ
405:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/04/05(火) 12:56:43.81 ID:eadDVvYj0
流された乳牛14頭、宮城農高に帰ってきた!
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110405-OYT1T00500.htm
東日本大震災の津波で校舎が破壊された宮城県名取市の県立宮城農業高校で、津波にさらわれた実習用の乳牛34頭のうち14頭が生き延びて戻ってきた。
生存をあきらめていた学校関係者は「よく生きていてくれた」と喜び、牛とともに学校の再生を誓っている。
地震発生の3月11日、同高実習助手の渥美勇人さん(36)は牛舎で生徒約10人と実習していた。津波の警報を受けて生徒といったん校舎に避難したが、「牛を助けなければ」と引き返した。だが、全頭を避難させることはできない。「せめて逃げてくれ」との思いで牛の首輪を外した。
牛舎近くの高台のやぐらに避難した渥美さんは、牛たちが濁流にのまれ、苦しそうに顔だけを出してもがく姿を見た。「生きてくれ」と祈ることしかできなかった。
ところが、この日の晩のうちに5、6頭が高台まで帰ってきた。さらに2日後には、数頭がけがを負いながらも戻った。「よく戻ってきてくれた」。渥美さんが1頭1頭抱きしめると顔をなめてくれ、胸がいっぱいになった。流されたのか学校から約5キロ離れた場所でも牛が見つかり、近所の人がえさや水を与えて面倒をみてくれていた。
168: 忍法帖【Lv=9,xxxP】 (catv?):2011/04/03(日) 22:43:15.76 ID:JZRbGNNxP
童話ができる瞬間を目の当たりにした。
257:名無しさん@涙目です。(関西地方):2011/04/03(日) 22:56:23.75 ID:Hjj3sqJ20
まんが日本昔話にして後世まで語り継ぐべし
未来のポスト鬼女だな
女の腐ったような、とはまさにこの事
>>29
てめーが理系なめんな、と言いたくなる文面だな
理系って事で論理に強いとでもいいたいなら自分の主張がねじ曲がってることぐらい気づけ
あと女子力()っていう女が軒並みブスなのはどうにかならんのか
じょwwwwwwwしwwwりょwwwwwうぇwwwwうぇwww
女叩きする気はさらさら無いけど女ってクズだな
おまいらと同じような人種じゃないか
仲良くしてやれよw
これ何人かのクビ飛ぶだろw
どんな神経してたらこんなことネットに書けるんだろう・・・
損害賠償でこいつの家族は大変なことになるだろうし、責任取らされる上司は下手したら死ぬし。
自分のアホなつぶやきで何人の人生が狂うなんて、俺なら発狂してるレベル。
ちょwwww.
犠牲者が稲本ってのが納得いかねぇんだけど・・・by川崎サポ
ツイッターは見てるのが自分のフォロワーだけと思ってる馬鹿がいるからコイツ以外にも他人のプライバシー晒しまくってる奴が沢山いるよね